【国を開けなさ~い】なぜペリーは開国を迫ったのか

社会

1853年、ペリー来航。

覚えやすい名前とタレントの関根勤さんがモノマネをしている様子などで、印象に残っている人は多いのではないでしょうか。歴史上の出来事での非常に重要な出来事ですが、なぜペリーが来航したのか、そしてその結果どのような結果になったのかを改めて振り返りたいと思います。

なぜペリーは来航したのか?

Commodore-Perry-Visit-Kanagawa-1854

ペリーが日本に来航した理由は、主にアメリカの経済的および外交的な目的にありました。19世紀中頃、アメリカはアジアへの貿易ルートを確立したいと考えており、特に中国との貿易が活発でした。しかし、当時の日本は鎖国政策を取っており、外国との貿易や交流を厳しく制限していました。

ペリーはアメリカ政府の命を受け、日本を開国させるために1853年に黒船を率いて日本に来航しました。主な目的は以下の通りです。

  1. アメリカの捕鯨船や商船の安全確保
    太平洋を航行するアメリカの船舶が、日本周辺で安全に寄港し、補給や修理を行える港を確保することが目的でした。
  2. 通商条約の締結
    日本とアメリカの間で貿易を行うための条約を締結し、日本市場を開放させることも重要な目的でした。
  3. アジアでの影響力拡大
    アメリカは中国や東南アジアとの貿易関係を強化したいと考えており、日本を開国させることでアジア全体への影響力を高めようとしていました。

最終的に、ペリーの来航により1854年に「日米和親条約」が結ばれ、日本は開国への一歩を踏み出すことになりました。

ペリー提督
Commodore Matthew Calbraith Perry

マシュー・カルブレイス・ペリーは、19世紀アメリカ海軍の軍人であり、特に日本との外交において重要な役割を果たした人物として知られています。彼の生涯は、アメリカ海軍の発展と世界におけるアメリカの影響力を拡大する過程で重要な役割を担いました。以下に彼の生涯の主要な出来事を紹介します。
(1)蒸気船導入への貢献
(2)メキシコ戦争での貢献
(3)日本への遠征と開国

来航後、開国まではどのような流れだったのか?

ペリーの来航によって日本がすぐに鎖国をやめたわけではありません。実際には、ペリーの来航をきっかけに少しずつ鎖国政策が解かれていきましたが、幕府や国内ではその対応に多くの議論と抵抗がありました。

ペリー来航とその対応

1853年にペリーが来航した際、幕府はペリーの要求に対して即座に返答を避けました。ペリーは開国を求めていましたが、幕府はこれをどう扱うか決定できず、ペリーに対して翌年までの回答を保留しました。この時点で幕府は、国を開くことに対して強い抵抗感を持っていましたが、同時にアメリカの軍事的な圧力を無視できない状況でもありました。

翌1854年、再びペリーが日本に来航すると、幕府はもはや拒否できない状況に追い込まれ、交渉を行った結果、日米和親条約(神奈川条約)を締結しました。この条約により、下田と箱館(函館)の2港が開港され、アメリカ船が補給や寄港のために利用できるようになりました。しかし、この時点ではまだ完全な開国ではなく、貿易に関する包括的な条約ではありませんでした。

鎖国解除に対する国内の抵抗

ペリーとの条約締結後、国内では鎖国を続けるべきか、開国すべきかという議論が活発になりました。特に幕府内でも意見が分かれ、保守的な勢力は外国の影響を避け、日本の独立性を守るべきだと主張していました。一方で、外国の圧力に屈せずに鎖国を続けることは現実的でないと考える人々も増えていきました。

また、民衆の中には外国人に対する不信感が強く、外国勢力に屈することを良しとしない意見がありました。これに加え、天皇や一部の藩も幕府の外交政策に反発し、「攘夷」(外国勢力を追い払うこと)を掲げる動きが広がりました。この反発は幕末の動乱期を招き、最終的に幕府の崩壊にもつながっていきます。

更なる条約と完全な開国

ペリーとの条約締結後、幕府はイギリスやロシア、オランダとも同様の条約を結びましたが、これも限定的なものでした。しかし、1858年にアメリカとの間で日米修好通商条約が結ばれると、横浜、長崎、新潟、神戸などの主要な港が開かれ、アメリカとの本格的な貿易が始まりました。この条約では、日本は関税自主権を持たず、外国人が日本国内で自由に活動する「治外法権」を認めるなど、日本にとって非常に不利な内容となりました。

この条約の締結により、日本の鎖国政策は事実上終了し、開国が進みました。しかし、この条約に対しても国内で強い反発があり、特に「不平等条約」として多くの人々が不満を抱きました。攘夷運動が盛んになり、一部では外国人に対する襲撃や外国船への攻撃も行われました。

開国後の混乱と幕府の崩壊

開国によって外国との貿易が進む一方で、物価の高騰や経済の混乱が発生しました。また、外国人の存在が国内の社会に大きな影響を与え、幕府に対する不信感がさらに強まっていきました。この混乱の中で、薩摩藩や長州藩などの有力な藩が力をつけ、「尊王攘夷」を掲げて幕府と対立するようになりました。

最終的に、これらの反発や混乱が日本国内の政治的緊張を高め、1867年には徳川幕府が大政奉還を行い、約260年続いた江戸幕府が崩壊しました。その後、明治政府が成立し、日本は近代国家への道を歩み始めます。


まとめ

ペリーの来航によって日本はすぐに鎖国を完全にやめたわけではなく、開国に向けて段階的なプロセスがありました。また、幕府や国内では外国勢力に対して強い抵抗があり、その影響で一部の勢力が攘夷運動を展開し、国内が混乱する時期もありました。最終的には幕府が倒れ、日本は近代化への道を歩むことになりましたが、開国への道は容易なものではありませんでした。

そもそも日本はなぜ鎖国政策を取っていたのか?

Nagasaki bay siebold

日本が鎖国政策を取った理由は、主に国内の安定を保ち、外部からの影響を最小限に抑えようとしたためです。この政策は江戸時代初期の徳川幕府によって制定され、主な理由は以下の通りです。

  1. キリスト教の排除
    鎖国政策のきっかけの一つは、16世紀末から17世紀初頭にかけて日本に伝来したキリスト教の影響を恐れたことです。ヨーロッパの宣教師が布教活動を行い、キリスト教徒の数が増加しましたが、幕府はキリスト教が国内の支配体制を揺るがす可能性があると懸念しました。キリスト教徒が幕府に反抗するような動きを見せることもあり、これを危険視した幕府は、キリスト教の伝播を防ぐために外国との接触を制限しました。
  2. 幕府の権力維持
    幕府は、外部からの影響や外国との交易によって、国内の大名や商人が力を持つことを恐れていました。特に南蛮貿易(ヨーロッパとの貿易)により、一部の大名が富や武器を手に入れ、幕府の権力基盤を脅かす可能性がありました。鎖国により、外国との貿易を幕府が厳しく管理することで、国内の統治を安定させようとしました。
  3. 国内の安定
    日本国内での社会的・経済的な安定を維持するためにも、外国からの影響を避けることが重要でした。特に、外国の文化や思想が流入することで国内の伝統や秩序が乱れることを防ぎたかったのです。江戸時代は「平和な時代」として知られ、鎖国政策はこの安定を守るための手段の一つとされました。
  4. 自給自足体制の強化
    鎖国政策は、国外との経済的な依存を避け、自給自足を強化する意図もありました。日本は豊かな自然資源に恵まれており、農業を基盤とした経済が成り立っていました。これにより、他国との貿易がなくても国内の経済を維持できる体制が整っていたため、外国との接触を制限することが可能だったのです。

ただし、完全に外国との接触を断っていたわけではありません。長崎の出島ではオランダや中国との限定的な貿易が許可されており、必要最小限の外交・貿易は行われていました。

鎖国政策はどのようなものだったか?

鎖国政策は、江戸時代に徳川幕府が行った一連の対外政策で、日本をほぼ完全に外部との交流から遮断するものでした。具体的には、以下のような措置が取られていました。

1. 外国船の入港制限

外国船が日本に自由に入港することを厳しく制限しました。基本的に、長崎の出島のみが外国との接触を許されていた唯一の場所でした。出島はオランダと中国の商船のみが来航を許され、他の国との接触は一切認められませんでした。特に、ヨーロッパ諸国の船が日本に来ることは禁止されていましたが、オランダはキリスト教布教に積極的でなかったため例外として認められました。

2. キリスト教の禁止

キリスト教の布教活動は禁止され、信仰が発覚した日本人キリシタンは厳しく弾圧されました。1624年にはスペイン船の来航を禁止し、1639年にはポルトガル船の来航も禁止されました。これにより、宣教師やキリスト教に関係する勢力が日本に入ることができなくなりました。

3. 海外渡航と帰国の禁止

日本人が海外へ渡航することを禁止しました。さらに、すでに海外に出ていた日本人が帰国することも禁じられ、違反者は死刑にされることもありました。これにより、日本国内に外国の思想や文化が流入することを防ぎました。

4. 貿易の限定化

貿易は完全に停止されたわけではありませんが、非常に厳しく管理されました。許された貿易は、長崎の出島でのオランダと中国との貿易に限定され、これも幕府の厳しい監視のもとで行われました。また、対馬藩を通じて朝鮮、薩摩藩を通じて琉球王国との交流が続けられました。これらの交流も形式的なものに留まり、実質的な外交関係や貿易は非常に制限されていました。

5. 外交使節の制限

外国からの使節は、基本的に受け入れませんでしたが、例外として朝鮮とオランダからの使節がありました。朝鮮からは「通信使」が定期的に派遣され、オランダからは出島を通じて幕府に年一回の報告を行うための使節が送られました。しかし、これらも緊密な外交ではなく、礼儀的な交流に留まっていました。

6. 松前藩によるアイヌとの交易

北海道(当時は蝦夷地)では、松前藩を通じてアイヌとの交易が行われていましたが、これは外国との交易とは異なり、日本の内政の一部として管理されていました。

7. 「四つの口」と呼ばれる外交・貿易ルート

鎖国時代にも一部の限定された場所で貿易や外交が行われました。この「四つの口」とは以下の通りです。

  1. 長崎口:オランダと中国を通じた貿易。長崎の出島が拠点。
  2. 対馬口:朝鮮との貿易。対馬藩が窓口となり、形式的な交流が行われました。
  3. 薩摩口:琉球王国を通じた貿易。薩摩藩が琉球を実質的に支配していたため、ここを経由して間接的な貿易が行われました。
  4. 松前口:蝦夷地(北海道)の松前藩を通じたアイヌとの交易。これは外交的なものではなく、内政の一環として行われました。

これらの鎖国政策によって、日本は約200年間、外部との接触を極限まで制限し、国内の安定を維持し続けました。しかし、完全に外部と断絶したわけではなく、限られたルートでの貿易や交流は続いていました。この鎖国体制は、1854年にアメリカのペリー来航によって終わりを迎えます。

著者プロフィール
この記事を書いた人
ロジャー

Webアプリ開発を20年近く経験し、管理職なった今も時々ソースをいじるメインは営業職の管理者。もうすぐ40代。最近は、AIを活用して少しでも仕事やプライベートを面白くしていきたいと考えているおっさんです。困った事もAIなら解決してくれるはず!?

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