完全に個人的な世界史の振り返りとしてまとめてみたいと思います。世界史の中でも凄い重要な出来事なのにあまりにも忘れてしまっているので…(;´д`)=3トホホ・・
第一次世界大戦が勃発した原因は何か?
第一次世界大戦が勃発した原因は、複数の要因が複雑に絡み合った結果です。主要な原因を以下にまとめます。
1. 同盟システム
三国同盟(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア)と三国協商(イギリス、フランス、ロシア)という二つの強力な同盟ブロックがヨーロッパで形成されました。これにより、地域的な紛争が拡大しやすくなり、各国が同盟国を守るために戦争に巻き込まれるリスクが高まりました。
三国同盟
1882年にドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアの3か国が結成した防衛的な軍事同盟です。目的は、フランスやロシアに対抗し、加盟国が攻撃された場合に互いに援助することでした。
三国協商
イギリス、フランス、ロシアの3か国が結成した非公式の協力関係で、第一次世界大戦前のヨーロッパにおける対抗同盟です。フランスとロシアが1894年に露仏同盟を結び、その後イギリスが1904年にフランスと英仏協商、1907年にロシアと英露協商を結びました。
2. 民族主義
各国が自国の民族の独立や統一を強く望み、それが他国との緊張を引き起こしました。特にバルカン半島では、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビアなどのスラブ系民族国家との対立が深刻でした。
3. 軍拡競争
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ諸国は大規模な軍備拡張を行い、軍事力を増強しました。特にドイツとイギリスの間で海軍力の競争が激化し、これが国際緊張を高めました。
4. 帝国主義
ヨーロッパ諸国は、植民地の獲得を目指して世界中で競争を繰り広げていました。この植民地争奪戦が各国間の対立を引き起こし、国際的な緊張を助長しました。
5. バルカン半島の緊張
バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるほど、民族間の対立や列強の利害が絡み合う地域でした。セルビアがスラブ系民族の保護を主張し、オーストリア=ハンガリー帝国と対立していました。
6. サラエボ事件(直接的な引き金)
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が、セルビアの民族主義者によって暗殺されました。この事件をきっかけに、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告し、それにより連鎖的に他の国々が次々と戦争に突入しました。
これらの要因が複雑に絡み合い、最終的に第一次世界大戦が勃発しました。
第一次世界大戦の開戦~終戦まで
第一次世界大戦の勃発から終息までの主な出来事を時系列でまとめました。
- 1914年
6月28日サラエボ事件オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が、セルビアの民族主義者ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺される。
- 7月8日オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告
サラエボ事件をきっかけに、オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が始まる。
- 8月1日ドイツがロシアに宣戦布告
同盟関係のため、ドイツがロシアに宣戦布告。ロシアの同盟国であるフランスにも戦争が広がる。
- 8月4日ドイツがベルギーに侵攻し、イギリスがドイツに宣戦布告
ドイツがフランスに侵攻する際に中立国ベルギーを越えたため、イギリスがドイツに宣戦布告。
- 9月6日 –
9月12日第一次マルヌ会戦ドイツ軍がパリ近郊に迫るが、フランス軍とイギリス軍が共同でドイツ軍を撃退。これにより西部戦線は膠着状態に。
- 10月19日 –
11月22日第一次イーペル会戦ベルギーのイーペルで激しい戦闘が行われ、塹壕戦が主流となる。
- 1915年
4月22日 –
5月25日第二次イーペル会戦ドイツ軍が初めて毒ガスを使用。戦争の残虐さがさらに増す。
- 5月23日イタリアが三国同盟を離脱し、連合国側で参戦
イタリアは連合国側(イギリス・フランス・ロシア)として参戦し、オーストリア=ハンガリーに対する戦争を開始。
- 1916年
2月21日 –
12月18日ヴェルダンの戦いフランスとドイツの間で、ヴェルダン要塞を巡る大規模な戦闘。100万人以上の死傷者を出す。
- 5月31日 –
6月1日ユトランド沖海戦北海でイギリス海軍とドイツ海軍の大規模な海戦。決着がつかず、両軍が引き分けに終わる。
- 7月1日 –
11月18日ソンムの戦い西部戦線最大の戦闘の一つで、イギリス軍とフランス軍がドイツ軍に対して攻撃を開始。戦争の膠着状態が続く。
- 1917年
2月1日ドイツが無制限潜水艦作戦を再開ドイツはイギリスへの海上封鎖を強化するために、無制限潜水艦作戦を再開。これによりアメリカとの関係が悪化。
- 4月6日アメリカがドイツに宣戦布告
ドイツの無制限潜水艦作戦と、ドイツがメキシコに対して対米参戦を持ちかけた「ツィンメルマン電報」が発覚し、アメリカが連合国側で参戦。
- 11月7日ロシア革命(十月革命)
ボリシェヴィキ(レーニン率いる社会主義政党)が政権を握り、ロシアが内戦状態となる。ロシアはドイツと休戦交渉を開始。
- 1918年
3月3日ブレスト=リトフスク条約ソビエト政権とドイツが講和条約を締結し、ロシアが戦争から離脱。これによりドイツは西部戦線に集中する。
- 7月15日 –
8月6日第二次マルヌ会戦ドイツ軍が再びパリを目指すが、連合国軍が反撃し、ドイツ軍の攻勢を食い止める。
- 8月8日アミアンの戦い
連合軍がドイツ軍に大規模な反撃を開始し、「黒の日」と呼ばれるドイツ軍の大敗北が始まる。
- 11月11日ドイツが休戦協定に調印
ドイツ革命の勃発により、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位。新たに成立したドイツ共和国が連合国との休戦協定に調印し、戦争が終結。
- 1919年
6月28日ヴェルサイユ条約の調印連合国とドイツの間で正式な講和条約が調印される。この条約でドイツは厳しい賠償金の支払いと領土の喪失を強いられ、国際連盟の設立もこの条約に基づいて行われた。
戦争の概要
第一次世界大戦は約4年間続き、多くの国が参戦した大規模な戦争で、約1600万人以上の死者を出し、ヨーロッパ全体に甚大な影響を与えました。
日本はどのように関わったのか?
日本は、第一次世界大戦において連合国側(イギリス、フランス、ロシアなど)として参戦し、戦争に関わりました。日本の参戦は主に東アジアと太平洋地域におけるドイツの勢力を排除し、戦後におけるアジアでの影響力拡大を狙ったものでした。
1. 参戦の理由
日英同盟(1902年)
日本は1902年に結ばれた日英同盟に基づき、第一次世界大戦が勃発するとすぐにイギリスからの要請を受け、連合国側として参戦することを決定しました。日本の参戦目的は、アジア太平洋地域におけるドイツの植民地や権益を獲得することでした。
2. ドイツ領への攻撃
青島の戦い(1914年8月23日)
日本はドイツに宣戦布告し、同年に青島(チンタオ)にあるドイツの租借地を攻撃しました。これは現在の中国山東省に位置するドイツの植民地であり、日英共同での青島攻略が行われ、ドイツは降伏しました。
南洋諸島の占領
日本はまた、ドイツ領南洋諸島(現在のミクロネシア、パラオなど)を占領しました。これらの島々は戦後に日本の委任統治領として認められ、日本の太平洋地域での影響力が大きく拡大しました。
3. 海上での活動
地中海への艦隊派遣
日本はさらに、イギリスの要請により、地中海に艦隊を派遣し、連合国側の船舶をドイツ潜水艦から守る役割を果たしました。これにより、日本は戦争への貢献を強めました。
4. 二十一か条の要求(1915年)
1915年、日本は中国に対して「二十一か条の要求」を提出しました。これはドイツが持っていた中国山東省の権益や、満州とモンゴルにおける日本の支配権強化を目指したものです。この要求は中国の強い反発を引き起こし、のちに日中関係に大きな影響を与えました。
5. シベリア出兵(1918年)
1917年のロシア革命後、ロシア内戦が勃発すると、日本は連合国側としてロシアのシベリア地域に軍を派遣しました(シベリア出兵)。この出兵は、ソビエト政権に対抗する反革命勢力の支援と、シベリアにおける日本の利益を守ることが目的でしたが、成果は限定的で、最終的に1922年に撤兵しました。
まとめ
日本は第一次世界大戦で、連合国側として参戦し、主にアジア・太平洋地域におけるドイツの植民地を奪取する形で参戦しました。戦後、ドイツの権益を獲得し、太平洋地域での影響力を大きく広げたものの、欧米列強との外交的な対立や不満も残り、これが日本の外交方針や後の国際関係に影響を与えることになりました。